200系は昭和11(1936)年に登場しました。
(注・・・現実世界の湾鉄デハ10形にあたる車両ですが、仕様はかなり異なります)
本形式は湾鉄折尾延伸とそれに伴う急行運転開始に備え、湾鉄のエースに相応しい車両を目指して設計されました。阪急900形や新京阪P-6などといった関西私鉄のエース級車両の影響を強く受けています。
93.3kWの三菱MB-146-Aモータを装備する両運車であり、全車4基モータの電動車です。
猿田峠越えに備え登坂性能を確保し、なおかつ急行運用に備え高速性能も兼ね備えるためには出力を増強する必要があったためです。非力な在来車では峠越えが難しいため、これと混結する必要もありました。
車体は「地方鉄道車両定規」目一杯の寸法で造られ、車体長18.0m(全長18.8m)・全幅2.74mと従来の車両より格段に大型化されました。湾鉄は裕福ではなかったため流線型車体の採用こそ諦めざるをえなかったものの、立派な大型車体は急行車の風格を十分に備えていました。側扉はボルスタと干渉しない位置に設置するなどして車体強度を保つことで大型車体でも軽量化を可能にしました。なお2扉車であり、窓配置はd1(1)D10D(1)1dです(dは乗務員扉、Dは客用扉、(1)は戸袋窓)。
1次車は折尾延伸に先行し、博多湾で開かれた築港博覧会の輸送に備えて3両製造されました。そして昭和13(1938)年までに折尾延伸に備え2次車が21両製造されました。
内訳は1次車が全てクロスシート車、2次車はクロスシート車6両・ロングシート車15両です。
200系の一部はクロスシートを装備した九州初の「ロマンスカー」です。扉間には国鉄電車2等車並のゆったりした固定クロスシートを1700mmピッチで配置しました。車端部は床に点検用のふたを設けたためロングシートでしたが、低座面設計で長距離乗車に配慮した設計としました。座席はクロス・ロングを問わずアンゴラ山羊の高級モケットを使用しました。
日除けもカーテンになり、重い鎧戸を操作せずに済むと好評でした。
急行車時代の座席配置図。ゴールデンオリーブ色の座席が並ぶ。床は当時最新のリノリウム張り。
昭和13(1938)年には折尾延伸が実現、このダイヤ改正から急行として活躍しました。折尾での乗り換えが必要とはいえ湾鉄・九軌ルートは省線(後の国鉄→JR)に対して十分な競争力を持ちました。座席など接客設備の良さや電車運転で煤煙から解放される点も乗客に好評でした。
200系は両運車であり、戦前には普通運用を中心に単行運転も行われました。
なお従来の車両は非力だったため、本形式のクロスシート車とペアを組み急行の増結運用に用いられました。
しかし戦前の輝かしい時代は長くはありませんでした。
戦争により200系の運命は狂ってしまいます。「ぜいたくは敵」という時代になり、そして軍需工場へ向かう旅客の大量輸送が求められました。やがて急行の運行は廃止され、「ロマンスカー」200系はクロスシートを撤去されてしまいました。
終戦直後はモケットが盗難に遭い窓も板張りとなるなど、湾鉄のエースだった200系は見るも無惨な姿になってしまいました。故障車も続出したため大出力を生かし暫定T車の牽引にも使われましたが、その時の走りは急行時代とはほど遠いものでした。
暗い時代が終わり、本形式がエースとしての輝きを取り戻す日が訪れます。
3次車が昭和24(1949)年に3両、4次車が翌年に5両製造されました。これにより昭和24(1949)年から急行の運転を再開できるようになりました。
座席がオールロングシートである点、アンゴラ山羊のモケットを諦めた点などが3・4次車の特徴です。急行に必要なクロスシート車は在来車の復元で賄えることと、戦災が癒えきらない時代であり物資不足や盗難リスクが理由でした。
また3次車はモータに100系発生品を流用しています。
3・4次車は急行の増結や普通運用で活躍しました。
戦後は旅客の増加により単行運転も次第に姿を消し、4次車は昭和26(1951)年にも12両が製造され、翌年に後述の5次車が出揃うと西京本線の全列車が2両編成になりました。急行はクロス・ロング各1両、普通はロング2両が基本です。
戦前形の一部はクロスシートに復元され、復活した急行運用に就くようになりました。見事エースとしての輝きを取り戻したのです。
昭和27(1952)年には最終グループである5次車が登場します。
200系で唯一、製造当初より片運転台で登場したグループです。2連2本の4両が製造されました。
また戦後形で唯一クロスシートを装備しました。アンゴラ山羊のモケットも復活、本形式の完成型ともいえる存在です。
在来車も5次車に合わせ収容力を増強するため、不要な運転台を撤去するなどの改造が行われました。
旧九軌区間を軌道線から鉄道線に転換し、昭和34(1959)年より鉄道線の列車が福岡市内と小倉・門司を直通するようになりました。
主役の座こそカルダン駆動の新型急行車に譲ったものの、200系のうちクロスシート車は新車に伍して新博多〜小倉(魚町)を国鉄の普通列車より30分ほど速い所要時間で結び活躍していました。高速ロマンスカー200系は登場から23年にしてようやく本領を発揮したのです。
また福北間を直通する3連急行の風景は絵になるものでした。このころが一番輝いていたでしょうか。
しかし国鉄の電化により陳腐化が隠せなくなるとともに新型急行車の増備に伴い、本形式は昭和39(1964)年までに全車ロングシート化され急行運用から撤退しました。
それでも高度成長で旅客が増え続ける中、通勤輸送などで新型車に混じって活躍しました。
ロングシート化や運転台一部撤去を施された末期の内装
急行運用から撤退した後も10年近くに渡り活躍し続けておりましたが、かつてのエース200系にもついに最後の時が訪れます。
老朽化に加え、混雑への対策や福岡市営地下鉄乗り入れに備える必要が出てきたためです。18m級2扉・半鋼製車体の本形式は収容力不足が指摘されるようになるとともに、地下鉄乗り入れも困難という課題を抱えていました。
昭和48(1973)年にまず4〜5次車が廃車されました。戦後形は経年が浅かったため機器は流用して使うこととしたからです。そのため戦前形より先に廃車され、機器を流用して700系が誕生しました。
翌年に戦前形(戦後製だがモータが小型車流用の3次車を含む)が全廃され本形式は消滅しました。戦前形は製造から40年近く経過していたため老朽化が進行しており、機器も流用されることなく解体されました。
余談ですが、本形式は当初ノーシル・ノーヘッダの流線型車体で製造される計画がありました。実現した場合は、上の画像のような車体になっていたようです。
廃車後、本形式の功績をたたえるためトップナンバーの201号が戦後の急行復活に伴う整備時の姿に復元され貝塚車両基地に動態保存されています。イベント時には構内運転や撮影会も行われ、子どもたちや家族連れ・鉄道ファンらを楽しませています。
そして本形式は戦前〜戦後初期の日本鉄道界を代表する名車の一つとして語り継がれています。